東京都写真美術館のきおく
わたしは、写真がよくわからない。
昔から、周りに写真を仕事にしている人が結構多く、写真の魅力や静かな熱意をたくさん聞いたことがあるはずなのに、よくわからない。
どこまでが本当で、どこまでが意図的なのか、よくわからないのが怖いのかもしれない。
ただ、たまに行きたくなるのが恵比寿の写真美術館。1年に1、2度程度だけ行く。
今回はメメントモリの展示に関心があり久々に足を運んだ。
同時に開催されていたアヴァンガルド勃興も面白かったので、印象だけ残しておく。
(写真NGだったので写真はないから、印象だけ。)
まずアヴァンガルド勃興。
初っ端からマンレイの写真。わたしはシュルレアリスム感じるアーティストが好きなのでうれしくなった。大学の授業ではじめて知って衝撃を受けたのがなつかしい。
あとはほとんどが日本の前衛写真集団?の作品で、初めて知る人ばかりだったがなかなかに面白かった。
これ、どうやって撮影したんだろう?どこまでが創作なんだろう?と思わされる写真や、日常を切り取った写真が他のものに見えてくる面白さ。
目を奪われたのはこのへん。
写実的であることだけを良しとしない、写真の自由さというものにはじめてちゃんと触れられた気がする。
続いて、メメントモリと写真。「死は何を照らし出すのか」
写真はメメントモリである、とあらゆる解説で言っていた。
生きている一瞬を映し取る写真が、逆説的に生き物の限りあるいのち・永遠ではないいのちを説明している。ほう。
ポスターにも使用されたこの写真、タイトルがいいなと思った。
「やがて死がやってきてあなたをねらう」
「ねらう」という表現の逃れられなさ。しかし、わざわざ死すわたしを探し回っているかのようなおもしろさ。
荒木経惟〈センチメンタルな旅〉の写真も改めてよかった。
編集者?にあてた直筆の手紙がもっとよかった。
世の中に嘘くささが蔓延っていること、ほんとうのものを表現したいこと…そんなようなことが強い筆でかかれていた。
藤原新也の作品が強烈で印象的だった。
羊の死骸?生贄?の写真についたキャプション、
「死とは、死を賭して周りの者を導く、人生最後の授業だ」という言葉がひどく残った。
ショッキングな写真が多いものの、ユーモラスだったりポップなキャプションに囲われて、死が哀しいことではなくその人自身を浮かび上がらせる"さいごの舞台"であるような表現がなされていて、前向きなにおいを感じた。
死を考えたら、どうしたってこわいし、死にたくないし。
でも、どう死ぬかって自由がきかないようで実は自分の自由な部分もあったりして、
「どう死ぬのか、死ぬまでの教養を生きている間にやしなえ」的な考え方はありなのかもしれないと思えた。
死を想うこと、それだけで「明日も頑張ろう!」みたいな単純な思考にはなれない。でも、必ず自分をねらいにくる死をどう受け入れるかは、きっと自分の最後の正念場であったりある意味表現の場なのかもしれない。
毎日、たたかって生きているようですごいな。